中央アメリカの密林の中に、
マヤ文明が残した異様な巨大石造遺跡群は、あまりにも有名だ。
ところが、それらの遺跡の内部に秘密寺院があることは、

ほとんど知られていない。
だが、実はこの秘密寺院にこそ、

マヤ文明の謎の本質が隠されているのだ。

文・写真 メキシコ人類考古学者 ミゲル・ネリ 「学研ムーNo17号」掲載

中米ユカタン半島を中心とする15万6000平方キロメートルのジャングルと山の地域に、点々と建ち並ぶマヤのピラミッドは20世紀の人類の前に、その既成概念をまったくくつがえさせ、長い間捜し求められてきた秘教的教えを明らかにしようとしている。

今も、密林の中から、次々と発見されるマヤの遺跡群は、現代人の表面的な判断力では、はかり知れない規模であることを感じさせる。

たとえば、最近発掘され始めたコバーの大都市遺跡では、すでに6500の構造物が記録されている。さらに、この都市からはサクべーと呼ばれる42本の通が、他のマヤ都市、チチェン・イツツアやトゥルム等、四方八方へと伸びている。

これらの地域に住んだマヤ人たちは、数百万と推定される。土地は、たいへん貧しく、農業には適していない。わずかに、パパイヤ、バナナ、柑橘(かんきつ)類、そしてココヤシ等が育つのみである。

ティカルの大神殿ピラミッド。高さ70メートルに達す
こられのピラミッドは、何の目的で 建てられたのか?

まだ復原されていないコバ一大ピラミッド。このようなピラミッドが密林の中
から次々と発見れるのだ。(右下)今もマヤ人の子孫が住んている漆喰塗りの家。

米はなく、とうもろこしが主食となっている。熱帯雨林性気候で、雨量は多く、一年中じめじめしている。このような生活に通さない地域に遺跡が存在すること自体、大きな謎の1つである。

一方、ユカタン半島の東は、黒サンゴと、色とりどりの熱帯魚の遊ぶ、エメラルドグリーンのカリブ海が広がっている。そして、16世紀の初頭、このカリブ海から、スペイン人たちがやってきた。

このすばらしい新大陸に足を踏み入れたヨーロッパ人たちは、信じられないような建築物を目にし、いったいだれがこのような建造物を残したのか、と当然の質問を発した。

この間いに、トラスカラの原住民たちが答えたところによると、今はすでに消えてしまったが、昔、この地に巨人が住んでいたとのことである。彼等は、その証拠に大切に保存していた骨を出してきてスペイン人たちに見せた。

それは大腿骨の部分であったが、非常に太く、長く、驚いたスペイン人たちはその骨をスペイン本国の王に送ったと記録されている。

さらに、征服の成った1521年、カトリックの宣教師たちが、新大陸を訪れ、マヤの歴史、哲学、宗教を調査研究し始めたが、そこでも祖先に関する点で数々の部族のものが一致していた。

原住民たちが口をそろえて伝えるところでは、彼等の祖先はたいへんな賢者たちで、無数のピラミッドは、その人たちの残したものであり、彼等はまた、大自然との調和ある生活を営んでいたという。

動物を殺すことはもとより、家畜にすることさえなく、自然の中で生物は、エコロジックな役割をそれぞれ果たしていた。彼等の民法には、人殺しに対する罰というものは存在しなかった。

雨の神を祭る儀式。

なぜなら、彼等の中で、人が人を殺すということは、想像だにできないことだったからである。
牢も奴隷もなく、教育は男女共学でだれでも参加でき、7年制であった。

すなわち、生まれてから7歳までは両親と共に家庭教育、7歳から14歳、14歳から21歳と、7年ごとに、自然科学や芸術を学び修得していった。
その目的は、人間1人1人の精神的進化を教え、導くことにあったのである。

天文学、医学、植物学、数学等の発達は、特に著しい。
マヤのカレンダーは、たとえば現在のカレンダーと比較しても、0・0002日の誤差しかない。

数学では、すでに0を知り、20進法を用い、ソロバンに似た方法で2つの記号「点と線」を用いた。この2つの記号は近代のコンピューターの基礎ともなっている。

この方法で、天文学的数字も、たやすくはじき出すことが可能であった。石標(エステラ)と呼ばれる彫刻された石柱の中には、グアテマラのキリグアー発見のもので9000万年、また、4億年の数が表されたものもある。

マヤ文献の1つ、ドレスデン古文書には、現在でも起こっている日食が明記されており、金星の会合周期等も記されている。

医学では頭蓋骨に穴を開ける手術から、ミイラ作り、薬草や香による治療法等があった。これらの薬草や香を使った伝統的な自然医学、儀式的医学は、現在でもメキシコの人々の間に広く利用されでいる。

ドレステン古文書。現在知られている4つのマヤ文献の
ちの1つで日食や金星の会合周期なとが記されている

 一方、金属の実用的使用は禁止されていた。マヤ人は、金属は武器製造へとつながり、戦争へと導くことを理解していたからである。

金属の使用が許されていたのは、農業、寺院の建築、金銀を使った儀式用品のみで、家庭で使われるナイフは、黒曜石(オブシディアン)と呼ばれる火山岩でできていた。

このように、金属に何の興味も示さなかったのと同様「車輪」についても同じことがいえる。「車輪」というものは、テクノロジーの起源であり、人間をして、純粋な科学から道をはずさせ、生産、消費、安楽な生活・社会へと導く。

アッシリア、バビロニアと同様、中央アメリカにも、4つの車輪をつけた土焼きの犬は存在する。なぜ車輪を知っていたのに、マヤ人はそれを荷車などとして実際の生活に役立てなかったかということは、研究者の間でも大きな謎であった。

だが、この4つの車輪をつけた犬は、人間が車輪によって、犬の様な家畜(自然界から離れ自立できない動物)になるということを象徴的に表しているのだ。

マヤの遺跡からは、上のような車輪のついた犬のオモチャがいくつも出土している。“マヤ文明は車輪を知らなかった”というのが定説たが、実は、マヤ人は車輪を知っていながら、それを実生活で使わなかったのた。

つまり、マヤ人は、車輪とその機能、それがもたらす弊害まで十分知っていたのであり、それゆえにこそ、その使用を禁じたのである。
マヤ人の唯一の神は、ククルカン(ケツアルコアトルともいう)であり、羽毛をもった蛇として象徴的に表された。そして、人間にしろ、動物にしろ、犠牲(いけにえ)を捧げるようなことは、決してなかった。花々と果実とコパル香と善行とを彼等は神に奉納していたのである。
彼等の調和的進化は目ざましく西暦909年のある日突然、人口の80%の人々は文字通り消えてしまったと伝えられる。建築途中の寺院まで、そのまま残して、消えてしまったのである。

パレンケの天文観測所。ユカタン半島の広大な山と密
林の中にはまだまだ、多彩なマヤの遺跡が眠っている
バビロニアから出土した車輪の犬。バビロニアの人々は、マヤ人と異なりこの車輪をテクノロジーとして使い強大な征服王朝を築いた。

岩質の土地で、そのため雨水はすく地下にフィル
ターされ、地下水路となって流れる。洞窟も多い。

そして、その日から祖先の叡知は急速に失われ始め、残されたマヤ人たちは、無知の暗闇と退廃とに落ち込んでいってしまった。残された人々は、「アィアィアィ」と悲しみの吐息をつき、大自然の神秘を伝え、公正に治めることを知っていた人々が行ってしまったことを悲しんだ。
 
この10世紀初期から、アメリカ大陸発見の1492年までの約600年間、中央アメリカの住民たちは、その無知ゆえの戦争、人身御供、政治的退廃に深く沈んでいった。

ユカタン半島にスペイン人たちがやってきた16世紀には、以前はたつた一つの言語であったマヤ語も、すでに27の異なった方言に分かれていたほどである。

チチェン・イッツア、コバー、パレンケ等の都市は、密林におおわれて久しく、すでに何世紀も前から人影は見られなかったのである。

ところで、これらのマヤの大都市は、はたして、どのような目的で建てられたのだろうか。

これらの大神殿都市は、マヤ人たちが神聖な教えを受ける場であり、宇宙総合大学としての機能をもっていた。都市相互間にも、完全に計算された調和が存在する。

決して各都市は偶然に建てられたものではなく、その目的と機能に合った計画のもとに建てられているのだ。たとえば、チチェン・イッツアは地理的にも天文観測に
最適な場所に設けられている。

このチチェン・イッツアを例にとつて、マヤの神殿都市の機能を具体的に見てみよう。

まず、ククルカンのピラミッドと呼ばれる主要寺院では、4時半から18時半まで太陽を観測し、特に3月21日と9月23日の春分、秋分の軌道を記録した。

この両日(及び前後2~3日)、このピラミッドは不思議な光と影の図形を出現させる。9段のピラミッドを照らす夕暮の太陽光線は、7つの二等辺三角形からなる光の帯をつくり出し(写真参照)、ちょうどその先が、ピラミッドの土台にある巨大な蛇の頭に届くのだ。

チチェンイッツアの主な建造物の配置図。
ククルカンのピラミッド。左側の影の部分の階段の右端に7つの二等辺三角形からなる
光の帯が出現、蛇(ククルカン)の頭に届く。まさに蛇が天から降りてくるようだ。

毎年、この奇跡を一目見ようと、世界各地から多数の観客が集まってくる。この日、土地の人たちは、「ククルカンが空から降りてきた」といい、蛇の頭に手をふれ環ここに集まる神秘的なエネルギーの恩恵にあずかろうとする。

このピラミッドが、いかに天文的な意味をもって建てられているかは、次の数字を見てもわかるだろう。

まず、ピラミッドの4面にあるそれぞれ52の4角のレリーフは、マヤの1世紀52年(365日の太陽暦と、260日のマヤ独自のツオルキン暦とが、再びスタート地点にもどる期間)を表す。

18の角は、1年18か月(ツオルキン暦20日×18か月=360日)、また、91段の階段が4面にあり、これは91×4=364と、プラス1番上の段で合計365日の太陽暦の1年を表す。

ピラミッドの内部には、エジプトのピラミッドと同様、通路や部屋が存在し、そこは、奥義に通じた司祭たちが、教えを受けた場所である。

ピラミッド内部模型。ピラミッドは2重構造になっており、内部
にもうlつのピラミッドが隠されている。これは象徴的に人体を
表し外部が肉体内部が精神領域で中心にスピリットがある。
第1の部屋にあるジャガーの像。 
内部階段。

光の帯が形造られる階段のすぐ右横に、内部寺院へと通じる細い内部階段がある。この寺院も、外部寺院と同様9段で、象徴的に完全なる人間(3×3)を表す。
この階段を昇りきると、72のヒスイの石をはめ込んだ赤いジャガーの像がある部屋へ達する。

そこは秘教的教えの1段階を示し、さらに第2段階へと進むためには、秘密の通路(現在、観光客は入れない)を通り、第2の部屋へといたるのである。
そこでは、人体のチャクラ(=内分泌腺)の機能と、そこを通る生体エネルギーの流れに関する生理学的解剖図を見ることがてきる。

さらに進んでピラミッドの頂上に出ると、ナチェン・イッツアのパノラマが、目の前に広がる。この宇宙の叡知と共振するための、荘厳な建築物の数々を、手に取るように見ることができるのだ。


戦士の神殿から内部へ降りていく入口。ハシゴのような階段を伝って内部へ降りていくと、ここにも内部寺院というぺき数々の部屋が設けられている。


遺跡のここかしこに秘密のトンネルが顔をのぞかせているが内部寺院と内部寺院を結ぶ地下通路と推定されている。

象徴的な絵が描かれている秘儀の部屋。
内部ピラミッドの第2の部屋。写真下は、チャクラを表し、写真上は、このチャクラから生体エネルギーが上に昇っていく道筋を示している。マヤ人は、ここで精神的進化の秘儀を学んだのてある。
戦士の神殿

チチェン・イッツアの東側、千本柱と呼ばれる建築物群の中で、ひときわ目立つのは、戦士の神殿(本来は騎士の神殿)として知られる建物だ。

この低めのピラミッドの階段を昇りきると、両側には、旗手の像があり、中央奥に祭壇が見える。この祭壇を支えているのがアトランテオトル(空を支える人)像だ。

神殿の外側の壁には、蛇の口から戦士の顔が出る彫刻がはめ込んである。この下から、ピラミッド内部へと導く秘密の通路があり、通路は、いくつもの秘儀の部屋へとつながっている。

左の写真は球技場石のリング。無限を示すマーク∞の模様がついている。

                 

4つの入り口から入る太陽光線(写真と図)
で、夏至、冬至の太陽軌道を測定した。

部屋の柱にはケツアル羽根飾り、耳おおい、首飾りなど、その数によって秘教的段階を表す飾りをつけた司祭が浮き彫りにされている。これらの部屋は非常に美しく、まさに異次元の雰囲気をただよわせている。「戦士の神殿」の正面にあるのが有名な球技場。ここで行われる球技は、儀式であり、数学と天文学に関する教育的目的を持っていた。

プレーヤーたちはゴムのボールを使って、手を触れずにヒップと腿(もも)でポールを打つ。ボールは、天空の星座と平行する軌道を描いてあやつられなければならず、最期には、壁の中央、高い位置に設けられた石の輪(◎=無限∞を表す)を通すことによって終わる。

ボールをヒップと腿のみで打つということは、生殖器及び性器の部分に注意を注ぐことを意味し、無限の知恵に到達するこのエネルギーをあやつる方法を示している。

球技場の建築は、独特なTを2つ合わせた形()で、この中央に立つと、ボールを打つ音は、17回続けてエコーが返ってくる。

両側の璧には、浮彫りで宗教的行列が描かれているが、中央の位置には、一人の戦士の象徴的に首を切られた姿が見られる。切られた首からは、7匹の蛇が現れ、最後の1匹は永遠の生命の木となっている。


球技場の壁に彫られているレリーフ。

右に戦士が首を切られた像があり
この首から7匹の蛇が現れている。

1枚石がはがれていてわかりにくいが、
蛇のl匹は生命の木となっている。

中央下にあるのが、象徴的死を表す
頭蓋骨である。

このレリーフの下の部分には、象徴的死を表す、頭蓋骨がある。すなわち、祭壇や彫刻に何度となく登場する死のイメージは、自然現象である肉体の死とは何の関係もなく、マヤの秘教的教えにもある内的な、秘教的死を指しているのである。

さて、この段階の教えと試練をパスすると、奥義に通じた人々はチチェン・イッツアの南の地域、すなわち丸い形とらせん状階段からカラコル(かたつむり)と呼ばれる天文観測所の位置する場所で、教えを受けることになる。この観測所は、平らな台座の上にあり、4つの人口によって夏至、冬至の太陽の軌道、月の北から南への傾斜等が、計量測定できる。

上の観測室の部分には、8つの窓があったものと考えられる。これらの窓からは、我々の惑星に起こる事、他の惑星との関連、無限の宇宙の観測がなされた。

このように、マヤ人は、純粋な科学を学ぶと同時に、宇宙の哲学的原理に関連することも学び、実践した。

マヤの聖なる書として知られるものに「ポポル・ヴフ」があるが、そこには、地球の創造起源から続く、人頬の歴史が記されている。まさに、ページをめくるごとに読者を次々に高い段階へと導いていく書物である。

それゆえ、マヤの人たちは、大部分の時間を精神的進化のために費やし、物質的な面は二の次にした。彼等はいう。

「この通りがけに生きる地球は、(魂を)浄化するための初歩的なプロセスであり、 目的は、常に上へ上へと進化することである」

1948年に発見されたパレンケの柩は、9段の「碑銘のピラミッド」の内部、72段の階段を降りた部屋に納められ、松の内部には司祭の死体とともに、陶磁器(セラミック)、食物、儀式用品等が保存され、死後に続く世界への、彼等の信仰と知識がうかがえる。

特異な精神文明を発展させたマヤ人の顔。深い瞑想に沈む
その表情は、広大無辺の 精神世界を旅しているように見える。

パレンケの碑名のヒラミッドの地下室て発見された石棺。そこに安置されて
いた死者は、はたして精神的進化を遂げた者だったのか?宇宙ロケットが描か
れているといわれて有名なこの石棺は、数々の謎を私たちに投げかけている。

 一般大衆の間では、肉体を失う前に進化を遂げることのできなかった魂を助けるため、彼等は、火葬の儀式を通して、パーソナリティの影響と未練の残る肉体を消滅させる。そして、灰はヒスイの舎利箱に納められ、寺院に埋葬された。

しかし、彼等にとって最も重要なのは、生きながらにして死を克服することであり、マヤの奥義に通じた人々が、10世紀初期に、物質的に消えてしまったことも、それなりの教えと実践が存在したからである。

つまり、彼等は精神の進化の極限において、肉体を捨てたのである。あるいは、宇宙船というようなテクノロジーによってではなく、肉体をもたないアストラル体(星気体)として宇宙空間へテレポートしたのだろうか。

一見、このような考えは非合理に思えるかもしれない。だが、マヤ人の偉大な文明自体が、このような精神の進化を目ざしていたことは確かなのだ。

チチェン・イッツアは、他の前スペイン時代の都市と同様、その形成期の痕跡は、何ひとつとして残していない。すなわち、彼らの知識、徐々に積み重ねられたものではなく、彼らの祖先のそのまた祖先から与えられたものである。

「ポポル・ヴフ」や「チラン・バラム・デ・チュマイエル」等の聖なる書にある「海を渡って東からやってきた人々」とは、そのことをさしている。

アステカでは、これらの祖先の住んでいた島は、アストランという名であると伝えられる。すなわち、アトランチスから、祖先の巨人たちが、知識と智恵をもってこの地に渡ってきたということは、すでに疑問の余地がない。
   
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理論や仮説は、いくつもあるだろう。懐疑的な人々も多数いるだろう。しかしながら、密林からは住民の消えてしまった都市が、次から次へと発見され、チチェン・イッツアの天文的現象も、数学的に計算されつくした正確さで、毎年毎年繰り返されるのは事実である。

科学が進歩すればするほど、神秘の都チチェン・イッツアの新しい次元を理解する手がかりを、人類は得ていくだろう。